「”彼”が来ているそうだよ」
僕がそのパーティーに出席することになったのはほんの偶然に過ぎなかった。
かなり大きな会場を、とある会社が貸し切りにして開催していたもので、あらゆる業界の者が招待されて集まってきていた。
中には久しぶりに会えて喜んだ者もいたが、逆に会いたくない者にも会う事になってしまうこともある。
僕に”彼”のことを報せてきたのも、後者のゴシップ好きな俗物だった。
この男はいつもトラブルを持ち込むことで有名で、ゲイの仲間の間ではなるべく近づきになりたくないと思われている類の人間だ。
僕としては男の言葉を無視してやってもよかったのだが、ここで下手な対応をすると後でいいように悪口に対象にされることは間違いなかったので、仕方なく相手にすることになってしまった。
そうして、やけに意味ありげなしたり顔で先ほどの言葉を言われることになったのだ。無視することも出来なくなるような内容の。
「”彼”とは誰のことだ?」
つい尋ねてしまうような。
「ほら、前に君がいたくご執心だったニッポンの指揮者がいただろう?彼の事を忘れてはいないと思うけど」
「さあ、誰の事か分からないな」
とはいえ、こんな男に言質を取られたりしたら、どうなることか。
「ケイ・トウノインだよ。最近はヨーロッパ各地でもよく指揮をしているようだがね」
男はトゥーインと発音した。
「ああ、彼の事か。で、彼がこのパーティーに来ているというのが君の話というわけか?」
おや、彼もこのパーティーに招かれていたのか。しかし、それらしい姿は見かけなかったように思ったのだが。
「いやいや、残念ながらMr.トゥーインは招かれてないのか来ていないよ。君は会えなくてがっかりだろうけどね」
「ずいぶんと持って回った言い方をするんだな。無駄話をするつもりなら他を当たってくれ」
僕は会話を打ち切るきっかけが出来たと考えていることを隠すこともなく、さっさと背を向けた。
「だからね。その、トゥーインの恋人がこのパーティーに来ているんだよ!」
僕が振り向くことを信じて疑わない、嬉しげな声が聞こえた。
男のもくろみは見事に成功した。僕は思わず振り向いてしまったのだから。
「・・・・・その恋人はどこにいるって?」
「ほら、あそこのテーブルのそばで数人話しているだろう?その中に東洋系の青年がいるのが分かるかい。あれが”彼”だよ」
ケイの恋人だと言う青年は、誰にこのパーティーに誘われたものか。
彼は今、確かドイツのTV局の関係者と思われる人間と話していた。
だが、そんな観察が出来たのは後の事で、”彼”を見てまず最初に頭に浮かんだことは、
――― 彼はケイ・トウノインにふさわしい恋人とは思えない!―――
という、なんともいえない不快さだった。
日本人と言えば、チビで貧相で眼鏡に愛想笑いという、悪意の混じったイメージがあるが、まさしく”彼”もそんな典型的な姿をしているとしか思えなかった。
掛けている眼鏡は黒ぶちの野暮ったいもので、彼のあまり整えられていないように見える髪型と同様、振り向いてまで見たいと思えるものではない。
更に話し相手に向けているあいまいな微笑みは、彼が自分に自信を持っていないように見せていた。
こんな男を、ケイはなぜ?
「彼はね、バイオリニストだそうだよ。
コンクール歴はあまりなくてね。イタリアに留学中に小さなコンクールで一つかな?その後はさっさと日本に帰ってしまって、ヨーロッパで活動しようとはしなかった。
いや、どこかに招かれるほどの音を持っていなかったから活躍できなかったのかもしれないね。
待てよ?そう言えばこの間ロン・ティボーに出たはずで、確か何か賞はとっていたんじゃなかったかな。とすると、これからソリストとして演奏活動をなんとかしようってことかな。
ここにやってきてあちこちに声をかけて、客演交渉の真っ最中というわけだろう。それで・・・・・」
僕はまだ続きを話し続けている男をその場に残し、会場を移動し始めた。
「おい!この先の話は聞かなくていいのか?これからが面白いっていうのに」
「興味は失せた」
背後からいまいましげな悪口が飛んできたが、奴の思惑通りにこちらが動揺して楽しませてやるつもりなどなかった。
とは言うものの、奴と離れケイの恋人らしい青年とは少し距離を置いた場所に立ち、知り合いとよもやま話を楽しんでいても、背後にいるはずの”彼”への関心がなくなったわけではなく、時折ちらちらと”彼”の様子をうかがうことになった。
僕に情報をくれた男の方は、僕がまったく関心を示してこないことを悟るとさっさと次に興味をおぼえた対象を見つけに行ってしまった。
そしてパーティーの片隅で何やら数人の男たちと話しこんでいたが、そのうち彼等と会場を抜け出していった。
興奮した様子から夜の相手を見つけたというわけではないようだったが、奴の目的や行方などには興味はない。
さっさとどこにでも行ってくれればいい。僕の行動を見張られたり邪魔されたりしなければ。
大きなパーティーでは、時間が長くなるにつれて行儀が悪くなったり良からぬ事を考えたりする者が出て来る事がある。
所在投げに窓のそばでひとりワインのグラスを片手にいつ帰ろうかと思案しているような顔の”彼”に近づいてきた連中もそんな要注意の人間たちだった。
奴らは危ないと警告するほどの親切心は持ち合わせていないから放っておいたが、どうやって切りぬけるのか少し意地の悪い興味があってそれとなく横目で見ていると、奴らの一人が”彼”にカクテルを勧めているのが見えた。
給仕が運んできたいくつかのグラスから一つを手にとって彼に渡す・・・・・。
パーティーに不慣れな人間がよくやられる悪戯だ。
あのカクテルの中身はおそらくたちが悪いものが入れてあるのだろう。飲み口は甘く軽いが、実際のところはアルコール度数が高く、後で酔いが一気に来るというしろものが。
”彼”がイケる口ならどうということはないが、もしアルコールに弱ければ・・・・・奴らの思うツボになるに違いない。
何も知らない様子の”彼”は、勧められるままにカクテルを口にし、僕が危惧していた通りの状況に陥っていった。
連中は親切そうに酔いざましをしようとでも言ったものか、そのまま会場の外に連れ出そうとしていた。もしかしたらこのホテルの一室を取ってあるのか、それとも・・・・・?
いずれにしても、危険な状態だった。
僕とすれば、何のかかわりもない”彼”がこの先トラブルに巻き込まれようとひどい目に会う事になろうと、知った事ではなかったのだが、ちょっとした気まぐれが彼等の方へ足を運ばせることとなった。
「失礼。連れが迷惑をかけてしまったようですまなかったね。僕が面倒をみるからもういいよ。ありがとう」
ぐいっと”彼”を引き寄せると、獲物を奪われて実に不満そうな顔をした連中に向かって、にっこりと笑って礼を言ってのけた。
「ここで騒ぎを起こすと困るのは君たちだろう?」
僕はちらりと彼等の背後に目を向けてみせた。
この手のパーティー全てに要注意人物というレッテルが貼られてお出入り禁止になってしまうぞ。
という言外の含みをみせながら。
この手の問題児たちは今までも大勢集まるパーティーにもぐりこんでは何かとの騒動を起こして警備の人間たちに注視されていたのではないかという僕の憶測は間違っていなかったらしい。
連中は背後にいた警備担当の人間がこちらを見ているのを知ると、口の中でなにやら捨て台詞をつぶやくとそそくさと立ち去っていった。
『えー、あの・・・・・?』
酔いに朦朧とした”彼”が立ち去っていく連中の後ろ姿を不思議そうに目で追っていた。
「君は知らない者についていくなとケイに言われた事はないのか?」
『あの・・・・・申し訳ありません。僕はドイツ語がよくわかりません。イタリア語をご存知ならそちらでしゃべっていただけませんか?』
”彼”はいかにも状況が分からず困っているといった声でうったえてきた。耳に快いテノールだった。
彼はイタリア留学していたのだったか。よろしい。では、イタリア語で話すとしよう。
「君は用心が足りない。あんな悪質な連中についていこうとするなど無防備すぎる。どこに連れ込まれても文句は言えないぞ」
「えーと・・・・・そう見えましたよね。実は僕が酔ってしまったのを見て休んでいけとしつこく言ってくるので、振り切ろうとしたんです。でも振りきれなくて困ってました。ありがとうございます。助かりました」
どうやら彼もそれなりに危機意識は持っていたらしい。危なっかしい事には変わりはなかったが。
「君は誰と来たんだ?そんなに酔いが回っているのだから、もう帰った方がいい」
これ以上、名前も聞いていないケイの恋人(だと聞いた)青年にかまってやるつもりはなく、パーティーの給仕にでも預けて帰るつもりだった。
「連れて来てくれた人は別に用事が出来たらしくて。でももうすぐここに友人がやってくるはずなので、待っていようかと思っていて・・・・・」
友人だって?
それは、ケイのことなのだろうか。
僕はこの青年をこのまま放置するつもりだった予定を変更することにした。
「君の名前は?」
「ユウキ・・・・・ユウキ・モリムラといいます」
「では、ユウキ。ここに来るという友人には伝言を残して、先にホテルに帰った方がいい。そんなに酔っていては、またよからぬ連中に目をつけられることにもなりかねない」
「・・・・・そんなにひどいパーティーだったんでしょうか?今回のコンサートツアーの興行元に、これからの活動のための顔つなぎにはぜひともいくべきだと言われて連れて来られたんですが」
「パーティーの最初はそうだったろうが、酒が入ればマナーもゆるんでくるし、こんなに大勢の人間がいればタチが悪い者も入っている。
こんな大きなパーティーでは、いくら招待者を厳選していても、ある程度は仕方ない。それが嫌なら早めに帰ることだ。それにしても、君を連れてきたという人間は君を放っておいていったいどこへ行ったんだ?」
「僕よりももっとプロデュースしたい人を見つけたんじゃないでしょうか。『あとはご自由に』と言って行ってしまいましたね」
なんという無責任な担当者か。
「あの・・・・・帰ります。ありがとうございました」
ふらふらと出口へと向かう彼の足取りは、見ているとかなり怪しい。
自分ではしっかりしているつもりらしいが、タクシーに乗って無事にホテルにたどり着けるのか不安になって来る。
どうやら飲まされたカクテルは僕の予想以上にアルコールが高かったらしい。それともユウキの体調があまりよくなかったのか。
「タクシーを頼んでやろう」
僕は彼の腕を取ると、給仕にタクシーを呼んでもらった。
「泊っているホテルの名前は?」
「ホテルは・・・・・・・・・・です」
ホテル名は、はっきりとは聞き取れなかった。いや、聞きとれたとしてもこのまま彼を手放すのも面白くない。
僕は給仕に伝言を一つ頼み、やってきたタクシーへと彼と一緒に乗り込んで、運転手に僕の自宅を告げた。
僕が給仕に頼んだ伝言とは、ユウキを僕の自宅に連れていくというごく普通の伝言だった。
ただし、ケイ・トウノイン本人が聞いてきたときにだけ伝えてくれるようにと念を押した。
ケイがあのパーティーにやってきて給仕たちにユウキの行方を尋ねることがなければ、彼がどこに連れて行かれたのかはまったく分からないことになる。
さて、はたしてケイはアパルトマンまでたどり着くことが出来るだろうか?